兄弟で無安打無得点試合
November 08, 2011 11:39 カテゴリ:Baseball
先週のことですが、ボブ・フォーシュが亡くなったそうです。先のワールドシリーズ第7試合で始球式のために地元ファンの前に姿を現してから、わずか1週間という急な訃報に、わたくしも含めて、衝撃を受けている人は多いようです。フォーシュがマウンドに立った試合に勝って、今年11回目の世界一に輝いたセイントルイス・カーディナルズですが、監督トニー・ラルッサの引退に続く残念な知らせで、喜びも半ばというところでしょうか。
ボブ・フォーシュは、1970年代から1980年代にかけて、セイントルイスの主力として活躍した右腕投手でした。MLB4年目の1977年に20勝をマークしたのがキャリアの最高潮でしょうが、その後も安定して10勝以上をマークし続け、1982年にワールドチャンピオンになった時には、ホアキン・アンドゥハルと並び、ティーム最多の15勝を挙げています。MLB16年間の通算成績は、498試合登板のうち先発は422試合、168勝136敗3セーヴ、防禦率3.76、1,133奪三振。打者に打たせてアウトにする投球術に長けていた投手ではありましたが、名投手と呼べるほどの実績ではありません。しかしフォーシュには、1978年4月16日のフィラデルフィア・フィリーズと1983年9月26日のモントリオール・エクスポズの2度、無安打無得点試合達成という輝かしい記録があるのです。
最初の試合の模様は、ダイジェストながらも当時のスポーツニューズで報じられたのを見た記憶があります。無安打無得点試合と言えば、きわどい判定がつきものですが、この試合でも、そんなプレイがありました。8回表、この回の先頭打者だったギャリー・マダクスの打球は三塁前に転がります。当時のセイントルイスの三塁手は、「ザンボニ」の異名を持つケン・ライツ。ザンボニというのは、スケートリンクの表面を平らにするための車(ただし、ザンボニは会社名)のことで、グラウンダーには非常に強いライツを、表面の荒れた氷を削っては集める機械になぞらえたというわけです。ところが、この打球の処理をライツがもたつき、マダクスが一塁に出ることになった。あと6つのアウトで記録達成という場面ですから、打球の判定が注目されるところですが、記録はライツの失策です。前の年の1977年には、三塁手としてシーズン9失策という当時の最少記録を樹立しているライツがミスを犯すとはと、この判定はいろいろと物議を醸したものですが、ともあれ、この打球が失策と記録されたおかげで、フォーシュの無安打無得点試合は達成されました。
ボブ・フォーシュが赤い鳥だったのは、1974年から1988年の途中までで、現役最後の1年半はヒューストン・アストロズで投げています。そのヒューストンは、ボブの実兄ケンが11年間プレイしたティームでした。ケン・フォーシュも弟と同じく、MLBで16年間マウンドに立ち、521試合登板で114勝113敗51セーヴ、防禦率3.37、1,047奪三振の記録を残しています。兄の方は救援での登板も多かったのですが、1979年以降はローテーションの一角として投げ続けました。先発に定着した、その最初の年、1979年の最初のマウンドとなった4月7日の試合で、ケン・フォーシュはアトランタ・ブレイヴズを相手に無安打無得点を達成しているのです。MLBには、フィルとジョーのニークロ兄弟、ジムとゲイロードのペリー兄弟、ラモンとペドロのマルティネス兄弟など、MLBの歴史に残る投手兄弟は何組もあるのに、兄弟揃って無安打無得点試合を達成しているのは、フォーシュ兄弟しかいません。
史上唯一の記録として、MLBの歴史にその名を残し、1982年と2011年と、セイントルイスに2度の世界一をもたらしたボブ・フォーシュの死を悼み、心からの冥福を祈りたく思います。
ボブ・フォーシュは、1970年代から1980年代にかけて、セイントルイスの主力として活躍した右腕投手でした。MLB4年目の1977年に20勝をマークしたのがキャリアの最高潮でしょうが、その後も安定して10勝以上をマークし続け、1982年にワールドチャンピオンになった時には、ホアキン・アンドゥハルと並び、ティーム最多の15勝を挙げています。MLB16年間の通算成績は、498試合登板のうち先発は422試合、168勝136敗3セーヴ、防禦率3.76、1,133奪三振。打者に打たせてアウトにする投球術に長けていた投手ではありましたが、名投手と呼べるほどの実績ではありません。しかしフォーシュには、1978年4月16日のフィラデルフィア・フィリーズと1983年9月26日のモントリオール・エクスポズの2度、無安打無得点試合達成という輝かしい記録があるのです。
最初の試合の模様は、ダイジェストながらも当時のスポーツニューズで報じられたのを見た記憶があります。無安打無得点試合と言えば、きわどい判定がつきものですが、この試合でも、そんなプレイがありました。8回表、この回の先頭打者だったギャリー・マダクスの打球は三塁前に転がります。当時のセイントルイスの三塁手は、「ザンボニ」の異名を持つケン・ライツ。ザンボニというのは、スケートリンクの表面を平らにするための車(ただし、ザンボニは会社名)のことで、グラウンダーには非常に強いライツを、表面の荒れた氷を削っては集める機械になぞらえたというわけです。ところが、この打球の処理をライツがもたつき、マダクスが一塁に出ることになった。あと6つのアウトで記録達成という場面ですから、打球の判定が注目されるところですが、記録はライツの失策です。前の年の1977年には、三塁手としてシーズン9失策という当時の最少記録を樹立しているライツがミスを犯すとはと、この判定はいろいろと物議を醸したものですが、ともあれ、この打球が失策と記録されたおかげで、フォーシュの無安打無得点試合は達成されました。
ボブ・フォーシュが赤い鳥だったのは、1974年から1988年の途中までで、現役最後の1年半はヒューストン・アストロズで投げています。そのヒューストンは、ボブの実兄ケンが11年間プレイしたティームでした。ケン・フォーシュも弟と同じく、MLBで16年間マウンドに立ち、521試合登板で114勝113敗51セーヴ、防禦率3.37、1,047奪三振の記録を残しています。兄の方は救援での登板も多かったのですが、1979年以降はローテーションの一角として投げ続けました。先発に定着した、その最初の年、1979年の最初のマウンドとなった4月7日の試合で、ケン・フォーシュはアトランタ・ブレイヴズを相手に無安打無得点を達成しているのです。MLBには、フィルとジョーのニークロ兄弟、ジムとゲイロードのペリー兄弟、ラモンとペドロのマルティネス兄弟など、MLBの歴史に残る投手兄弟は何組もあるのに、兄弟揃って無安打無得点試合を達成しているのは、フォーシュ兄弟しかいません。
史上唯一の記録として、MLBの歴史にその名を残し、1982年と2011年と、セイントルイスに2度の世界一をもたらしたボブ・フォーシュの死を悼み、心からの冥福を祈りたく思います。
アンタッチャブル
November 03, 2011 08:13 カテゴリ:Baseball
30ティームのトップページを完成させたと言ってから、またしても忙しさにかまけているうちに時が経ち、しかしおかげさまをもちまして、わたくしの長年のひいきであるセイントルイス・カーディナルズが11回目の世界一を成し遂げることができて、たいへんに喜んでおりました。「HISTORY」で、1982年のワールドシリーズのことを書いておりますが、わたくしがセイントルイスを応援するようになったのがその時からであるので、今年2011年はちょうど30年目ということになります。その間に3度も世界一を見ることができてしあわせです。平均すれば10年に1度というから、数字の上ではあまり多くないように見えても、MLB全体で最低26ティーム、リーグには少なくとも12ティームが所属していたことを考えれば、水準以上の出来と言えるでしょう。
ティームにワールドチャンピオンをもたらして、監督トニー・ラルッサが野球界からの引退を発表しました。ラルッサがMLBで采配を揮うようになったのは、1979年のシカゴ・ホワイトソックスが最初です。この年開幕当初は、ドン・ケシンジャーが当時としても珍しかったプレイヤー・マネージャーとしてティームを率いていました。しかし、46勝60敗という成績不振のために解任され、その後をラルッサが引き継いで27勝27敗の五分の成績でシーズンを終えたわけです。ラルッサは、それから8年シカゴの監督を務めます。1983年は、ラルッサが初めて最優秀監督に選ばれた年ですが、この年のシカゴは、当時のアメリカンリーグ西地区で99勝を挙げ、2位以下は全て勝率5割未満という圧倒的な強さを示したものでした。
1986年途中にシカゴを解任されたものの、すぐにオークランド・アスレティックスに迎えられました。そして1988年から1990年にかけて、3年連続アメリカンリーグ優勝と、ティームにとっても自分にとっても、黄金時代を築き上げることになります。セイントルイスにやって来たのは、オークランドで10年を過ごした後の1996年のことで、それから足掛け16年、ここでの仕事を続けてきました。気が付いたら監督としてのキャリアは33年となり、ニューヨーク・ジャイアンツで30年半も采配を揮った殿堂入り監督ジョン・マグローと並ぶことになりました。わたくしがMLBに興味を持ち始めたとき、コーネリアス・アレグザンダー・マギリカディことコニー・マックが、フィラデルフィア・アスレティックスで50年監督を務めたという話に驚き、その記録に続くのがマグローでした。マックはともかくも、マグローの記録も、監督交代が頻繁に行なわれる現代MLBにおいては、ある意味アンタッチャブルだと思われたものです。いや、ラルッサがマグローに並んだとは言え、今でもやはりアンタッチャブルな記録であることには変わりはないでしょう。昨年惜しまれながらMLBから退いたボビー・コックスでさえ監督生活は29年間。コックスの場合には、1986年から1989年までの4年間の空白があったことが惜しまれます。
ラルッサが去った後、セイントルイスの監督には誰が招かれることでしょう。有力と見られているのは、2004年のワールドシリーズで世界一を争ったボストン・レッドソックスのテリー・フランコナ。タムパベイ・レイズをポストシーズンの常連ティームに育て上げたジョー・マッドンを狙っているという噂もあれば、内部からの昇格ならば三塁コーチのホセ・オケンドという話もあるようです。個人的には、セイントルイスのメンバーとして馴染みの深いオケンドの就任を希望します。わたくしはタムパベイも好きなので、マッドンにはもうしばらくレイズで采配を揮ってもらいたいですね。
ティームにワールドチャンピオンをもたらして、監督トニー・ラルッサが野球界からの引退を発表しました。ラルッサがMLBで采配を揮うようになったのは、1979年のシカゴ・ホワイトソックスが最初です。この年開幕当初は、ドン・ケシンジャーが当時としても珍しかったプレイヤー・マネージャーとしてティームを率いていました。しかし、46勝60敗という成績不振のために解任され、その後をラルッサが引き継いで27勝27敗の五分の成績でシーズンを終えたわけです。ラルッサは、それから8年シカゴの監督を務めます。1983年は、ラルッサが初めて最優秀監督に選ばれた年ですが、この年のシカゴは、当時のアメリカンリーグ西地区で99勝を挙げ、2位以下は全て勝率5割未満という圧倒的な強さを示したものでした。
1986年途中にシカゴを解任されたものの、すぐにオークランド・アスレティックスに迎えられました。そして1988年から1990年にかけて、3年連続アメリカンリーグ優勝と、ティームにとっても自分にとっても、黄金時代を築き上げることになります。セイントルイスにやって来たのは、オークランドで10年を過ごした後の1996年のことで、それから足掛け16年、ここでの仕事を続けてきました。気が付いたら監督としてのキャリアは33年となり、ニューヨーク・ジャイアンツで30年半も采配を揮った殿堂入り監督ジョン・マグローと並ぶことになりました。わたくしがMLBに興味を持ち始めたとき、コーネリアス・アレグザンダー・マギリカディことコニー・マックが、フィラデルフィア・アスレティックスで50年監督を務めたという話に驚き、その記録に続くのがマグローでした。マックはともかくも、マグローの記録も、監督交代が頻繁に行なわれる現代MLBにおいては、ある意味アンタッチャブルだと思われたものです。いや、ラルッサがマグローに並んだとは言え、今でもやはりアンタッチャブルな記録であることには変わりはないでしょう。昨年惜しまれながらMLBから退いたボビー・コックスでさえ監督生活は29年間。コックスの場合には、1986年から1989年までの4年間の空白があったことが惜しまれます。
ラルッサが去った後、セイントルイスの監督には誰が招かれることでしょう。有力と見られているのは、2004年のワールドシリーズで世界一を争ったボストン・レッドソックスのテリー・フランコナ。タムパベイ・レイズをポストシーズンの常連ティームに育て上げたジョー・マッドンを狙っているという噂もあれば、内部からの昇格ならば三塁コーチのホセ・オケンドという話もあるようです。個人的には、セイントルイスのメンバーとして馴染みの深いオケンドの就任を希望します。わたくしはタムパベイも好きなので、マッドンにはもうしばらくレイズで采配を揮ってもらいたいですね。
30ティームのトップページ
June 04, 2011 14:06 カテゴリ:Michael
MLB30ティームのトップページが完成しました。作業が半ばまで来たところで、Microsoft Officeのヴァージョンを新しくしたら、HTMLに書き出した際の体裁が微妙に変化するという事故が起こったのです。今ならまだ間に合うというので、またしても、全てのページの体裁を調整するという余計な作業が発生してしまいました。それでも、変更作業はスムーズに進み、何とかトップページ30枚分の完成にこぎつけたわけです。
トップページができたので、今度は中身を充実させていかないとなりません。各ページのサイドバーには、それらしいアイテムが列記されていますが、もしかすると、多少の変更があるかもしれません。ともあれ、データ部分には、どの記録を載せればよいか、コメント部分では、どんな出来事を書き、誰の話を綴ったらよいか、内容の吟味がまた大変なわけですが、量はともかくも、書くこと自体は楽しみにしています。今のところ大きな仕事が入ってきていないので、さらに再建作業が進められるそうです。個人記録のような、データに関するページは、あまり難しく考えなくとも作成できるので、こちらを中心にして作業するのがよいでしょう。
トップページができたので、今度は中身を充実させていかないとなりません。各ページのサイドバーには、それらしいアイテムが列記されていますが、もしかすると、多少の変更があるかもしれません。ともあれ、データ部分には、どの記録を載せればよいか、コメント部分では、どんな出来事を書き、誰の話を綴ったらよいか、内容の吟味がまた大変なわけですが、量はともかくも、書くこと自体は楽しみにしています。今のところ大きな仕事が入ってきていないので、さらに再建作業が進められるそうです。個人記録のような、データに関するページは、あまり難しく考えなくとも作成できるので、こちらを中心にして作業するのがよいでしょう。
野球と映画こそが文化である
May 07, 2011 12:42 カテゴリ:Movies
映画『フィールド・オブ・ドリームス』"Field of Dreams"は、親と子、過去と現在が、野球を通してつながるというテーマが共感を呼び、代表的な野球映画のひとつに数えられています。レイ・キンセラは、妻と娘との3人で、アイオワでトウモロコシ農家を営んでいます。畑仕事をしていたレイは、"If you build it, he will come.(それを作ればあの男はくるだろう)"という声を耳にします。誰がどこから語りかけてきたものなのか。謎の声が気になって仕方のないレイでしたが、ある日の夕方、自分のトウモロコシ畑の真ん中に、照明であかあかと照らされた野球場が浮かび上がっている光景を目にして、はっと気がついた。レイは畑をつぶして野球場を建てましたが、あの男はいっかな現れようとしません。収入は減る、周囲の人たちから陰口を叩かれる。レイたち家族の暮らしは次第に厳しくなってきます。そんなある晩、不思議なできごとがレイの野球場でついに起こったのでした。
映画の中でジェイムズ・アール・ジョーンズ扮する作家テレンス・マンが、アメリカという国は急速に変化してきたが、ただ一つ野球だけは変わっていないと語る場面があります。建国から230年という歴史の浅い国が誇ることのできる独自の文化は、野球とハリウッド映画との二つだとよく言われますが、『フィールド・オブ・ドリームス』はその二つが見事に結びついた佳作と言っていいでしょう。(2007年5月9日)
偏見を乗り越えて
April 24, 2011 14:16 カテゴリ:Movies
『タイタンズを忘れない』"Remember the Titans"は、実話に基づく映画です。70年代前半、ヴァージニア州アレクサンドリアの二つの高校、ヨーロッパ系アメリカ人だけが通う学校とアフリカ系アメリカ人だけが通う学校とが統合されました。公民権運動が北米大陸全土で展開されていた時代とはいえ、南部のヴァージニアには依然としてアフリカ系アメリカ人に対する偏見が根強い。そこに、ノースカロライナ州の高校からアフリカ系アメリカ人監督ハーマン・ブーンがアメリカンフットボール部に赴任します。そしてブーンが、州の教育委員会の後押しで現職のヨーロッパ系アメリカ人監督ビル・ヨーストと交代したことで、街中が騒然となります。部員の間にも険悪な空気が漂いますが、そういうこだわりのまったくないルーイ・ラスティクや、自由な雰囲気の西海岸から転校してきたロニー・"サンシャイン"・バスが加わったことで、選手たちはお互いを理解しあうようになり、ティームの結束は次第に強まっていきます。そしてついにシーズンが開幕。アフリカ系だろうとヨーロッパ系だろうと関係のない、一つのティームとして快進撃を続けるタイタンズの姿に、地元の人たちは、お互いが助け合い、支え合うことのたいせつさを教えられるのでした。
『タイタンズを忘れない』はアメリカンフットボールの映画ですが、今年4月15日は、MLB初のアフリカ系アメリカ人選手ジャッキー・ロビンスンが、ブルックリン・ダジャーズのメンバーとしてデビューした日から数えて60年目。きょうのこの日を記念するとともに、人種の問題について改めて考えさせてくれるこの映画を紹介しました。(2007年4月16日)